田ノ浦
田ノ浦町の山宮神社の文化財
 山宮神社は社伝によると和銅二年(七〇九年)の創建と伝えられ、大同二年(八〇七年)に六社を合祠し
祭神は天智天皇・大友皇子・持統天皇・倭姫・玉依姫・乙姫の六産で、山口六社大名神と称し、明治維新後、郷社山宮神社と改められている。
主な祭礼行事としては、現在元旦祭(元旦)打植祭(二月十七日)市渡祭(二月二一目)、六月灯(旧六月)
豊年祭(十月二三日)新嘗祭 (十一月三日)が行れているが、藩政時代には、四八種の祭事が行われいた

建造物は、本殿・拝殿・天満宮・随神殿(二)・神庫(附御礼所)・宝物殿・楼門・鳥居・門主殿(二)・社務所・随神石造(二)・灯龍(一二)・手洗舎が主なもので、藩政時代には、舞殿・四足・観音殿・龍所・御供所・鐘楼・井戸(二)等の建造物が付随している。 また、宝物殿に宝蔵されている文化財は、国指定重要文化財の鋼境一面をはじめ、藤原・鎌倉・室町・江期に至る古鏡約一〇〇面のほか、神舞面・能面・絵馬・神舞神事・衣装・神楽等、更に境内には、天然記念の大楠、県指定無形民俗文化財のカギヒキと正月踊どが保存されている。

安楽

安楽山宮神社の文化財

 山宮神社は社伝によると和銅二年(七〇九年)の創建と伝えられ、大同二年(八〇七年)に六社を合祠し、祭神は天智天皇・大友皇子・持統天皇・倭姫・玉依姫・乙姫の六産で、山口六社大名神と称し、明治維新後、郷社山宮神社と改められている。主な祭礼行事としては、現在元旦祭(元旦)打植祭(二月十七日)市渡祭(二月二一日)、六月灯(旧六月)豊年祭(十月二三日、新嘗祭 (十一月三日)が行れているが、藩政時代には、四八種の祭事が行われいた。


大慈寺


大慈寺は興国元年(暦応三年、一三四〇年)の創建、開基は志布志城主、楡井頼仲
閉山は玉山玄提和尚である。創建の後、光明天皇より「広慧」の宸筆を下賜されて大慈広慧禅寺と称し、文安元年(一四四四年)臨済宗十刹の列に加えられている。


大慈寺は臨済宗京都正法山妙心寺の末寺であるはじめは京都五山の東福寺に属し、二代剛中は後に寺五十四世として本山に往持している。妙心寺に転じからも、西院・龍雲・万安・柏川の各住職が勅請の綸を賜って妙心寺に住持している。藩政時代の大慈寺領五九二石、寺域八町四方、盛時には寺内に一六の僧房が並び、禅門に学ぶ雲水百を超え藩内の末寺は十余ケ寺に及んでいる。
明治二年の廃仏棄釈により、大小の殿堂を全壊し一時は廃寺となったが、明治十二年官許を得て寺号復、相川の隠居所のあった旧大慈寺宝池庵跡に再興して現在に及んでいる。

なお当時の廃仏の中で、寺に蔵した寺宝、古文書の大半を保管し得たことは、奇跡に近く、郷土の文化に与える影響ははかりしれないものがある。


宝満寺

 

 明治二年廃仏棄釈によって廃寺となった律宗秘山密教院宝満寺の遺跡である。
宝満寺は奈良時代の四十五代聖武天皇が皇国鎮護のために各地に建てられた勅願寺の一つで、妨津一乗院と並称される古刹で本尊は如意輪観世音であった。
後花園天皇の正和五年(一三一六年)忍性菩薩の弟子信仙上人英基和尚は院宣を受け勅顧所として宝満寺を再興したもので、元応二年(一三二〇年)本山の西大寺より運慶作と伝える本尊如意観世音菩薩が下向したものである。

 暦応三年(一三四○年)足利直義は院宣を受け、一国一基の塔婆を日向一の寺して当寺に建て仏舎利一粒が奉納されている。(現在町内佐野田中家に保存)
 宝満寺は参内院参の寺格を有し、本尊如意輪観世音菩薩は産婦を守護するとして護符が出され、シャンシャン馬の新郎新婦の参詣で賑い、美しい伽藍は西海の華呼ばれていた。明治二年の廃仏後、住職道和尚の死もあって再興することができなかったが、寺跡には信仰者にょり観音生が建立され参拝者も多い。遺跡には歴代尚の基六十基余、仁王像・下馬礼・石橋等の建造物、旧転倒等が残り岩窟や背後の自然林と共に往時を偲ばせている。
なお現在の観音堂は明治十九年(一八六年)大慈寺の柏州和尚が大慈寺説教所の名目で再興され、その後仏心講の手によって大御堂を建立し、町民に観音信仰伝え、旧四月八日の花祭りが例年盛大に行われている。

 

 

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